欠落感

ここに載せるのは先月22日に書いた<杜撰な念仏>である。追記は5/30。<ずさんな念仏>という言葉の意味は文章を通読いただければなんとなくご理解いただけるかもしれない。

今これを読んで思ったことは、人間はひと月あまりでも考え方が変わる、ということだ。つまり今私はこのようには考えていない。それでも載せるのは、先月の私がここへ載せるためにこれを書いていた、という意思を酌んでのものである。大したことは書いていない。

 

 

自分の書いた文章、特に創作では、読み返すたびに、何かが欠落している気がする。

いったい、それがなんなのか。作っても作りきれずに継ぎ足しては削り取るような、そんな、あたかも終わらない建築物のようだ。とはいえ、終わらないことが祈りそのものであるガウディのサグラダ・ファミリアを引き合いに出すわけにはいかない。それはあまりに不遜に過ぎるし、だいたい最終的な目的が違う。

文章を追っていると必ず感じるのは結論へ足早に辿り着こうとする意思の残滓。その性急さゆえに言葉足らず、字足らずになっているようである。要は説明不十分なのだ。では結果だけがはっきりしているのか?答えは否である。むしろ結論結果が何であるのかは書きながら探している。遮二無二念仏を唱えて、神仏の降臨を願っているような格好だ。しかし、その「念仏」が杜撰なのだ。

私は全体像を俯瞰できるよう、青写真とかマッピングとかとでもいうべき作業をしてからでないと目指すべきゴールへは上手く辿り着ける自信がない。いや、そんなもの作らなくても全く書けない、ということはないのだが、結局のところゴールの目算が有ろうと無かろうと、そのゴールへの道筋を正しく説明づける豊かさとでも言うもの、説明十分、正しい<祈り>、それこそが文章を綴る上で重要・肝要なものなのではないのか。

それは小手先の技術でもなく、結論への希求の意志でもない、いわば第三の、あるいは第一の理由だ。つまりは、語りたいという意思ではないのか。

ということを、この青写真なしの文章で探し当てた、とりあえずの結論としておく。。

 

 

追記

因みにこの文章の<至極曖昧な>青写真は、コミュニケーション能力の向上が<語りたい意思>によって見込まれれば、つまり場数をこなすことによって豊かさを獲得できさえすれば、適度な<こなれ感>と共に闊達な文章を綴ることができるに違いない、そう願っている…といったものだった。

 

 

...

 

この文章は、結局<念仏>として機能しておらず、導き出した結論も的を射ているようには今は思えない。

私の文章のアラは、入力する折に思いだされてきた単語や修辞に一人酔って、その修辞をより華のある見せ方をしようと、形容詞の方に力点を置くことにある..と思える。

いわば表面の取り繕い、言葉遊びの中に話の真相を見出そうとしている、というところか。

 

結論を言えば、<語りたいという意思>は初めにあるからこそ書くわけで、正しくない。

 

私が自分の書くものに欠落感を感じることの正体とは、①語りたいことが自分の中で明確になっていないこと、②表面上の言葉遊びをすることに目的がすり替わってしまい「<語りたいという意思>=言葉遊びをしたい」に変わっていることである。

この二つは、かちあったり、混ざり合ったりすると、混乱しか招かない。②で①の取り繕いをしようとし、自己弁護を自分に向けて行い、それが正しいもの、正しい行いであるかのような顔をしだす。結果として自分自身のことでありながら、自分の結論が曖昧になってしまう。

故に、①②を共に自分から生まれた衝動として認め、自分の表現とするには、俯瞰した統制力が必要となってくる。これが、文中の「青写真」だ。主題・シナリオ展開・諸設定といった、全体の設計図とでもいうべきもの。

ただ、設計図というのは、設計している段階がひどく楽しい場合があり、目的を見誤る可能性はここにも潜んでいる。

 

何やら、書いていて「ぬかるみをこねまわす」かのような感覚に陥ってきたのでこの辺で終わりにするが、結局のところ、衝動一発で書き上げてみる以外に、この種の不満の改善の道はないのだ。

というよりも、その欠落感こそが、正しく「主題を<語りたいという意思>」を尊重するのだろう。何度でも推敲をし、文章を通して、物語を通じて、思いを読み手に伝えたいという、そんな誠実さに繋がるものなのではないか。

 

 2018/06/29 21:22記